認知症にVR徘徊

VR臨終

うらやましい孤独死

森田 洋之 「うらやましい孤独死」 からの学び。

この本は、「孤独死なのにうらやましい」事例(おもに自宅での孤独死)を紹介することで、

孤独死を過度に恐れるため、独居高齢者を施設に収容してしまう、

いまの医療システムに異論を唱え、

うらやましいとは言わないが、

孤独死でも綺麗に死ぬことが、可能だと思わせてくれる良書。

 

認知症でも人格は保たれる

「認知症になったら何もわからなくなる」というのは誤解である。

認知症というのは基本的に記憶障害であり、最期まで人格や性格は元のまま保たれるケースが多いのだ。

・・・人格が変わったと思われるケースの多くは、周囲の人々の対応が変わってしまってことに起因する当人の困惑なのである。

認知症になったら自分が自分で無くなる、何もわからなくなると思ってた。

だから認知症になったら、人生終わりと思ってました。

認知症になっても、自分が自分でいられるとわかって、

人生終わりでもないんだと、少し安心しました。

 

問題行動の本質

人格や性格が変わっていないのだから、「自分が周囲の迷惑になっている」という感覚にも敏感だ。

・・・周囲の人が「また変なことをしている」というような対応をとれば、彼らはさらに不安になり、

・・・不安で困った末、暴れたり大声をだしてしまうのである。これを世間は「問題行動」と呼ぶ。

認知症になると、物や事を認知することができず、

頭がおかしくなって、暴れだすのかと思ってました。

(だから認知症っていうのかと)

不安からくる、ストレスへの反応という見方もあるんですね。

しかし、実際に自分がなってしまったら、

「これはストレスだ」なんて、冷静に考えられるかなあ。

 

認知症でも、うらやましい孤独死

病院に入院したミツエさんの生活は一変した。そして性格も一変した。

点滴の管を抜く、ベッドの柵を乗り越える、昼夜関係なく大声で喚く

・・・重度の認知症患者でもそれなりの生活ができていたのは、昔から変わらない木造平屋の自宅に住まい、顔見知りの近所の仲間たちに囲まれていたからだったのだろう。

病院という白い壁に囲まれた無機質な生活に放り込まれたミツエさんは、その余命幾ばくもない体にムチ打って、医学的管理という拘束から必死に逃れようとした。

・・・退院して自宅に戻ると、それまでの暴れっぷりが嘘だったかのように元の穏やかなミツエさんに戻ってしまった。

・・・高齢独居にもかかわらず、そればかりか重度の認知症にもかかわらず、最期まで自宅での生活を継続できたミツエさんの人生。

ミツエさんの最期が一人であったということに、どれほどの意味があるのだろう。

認知症で一人暮らしをしていた高齢者が、急病で入院治療しました。

しかし完治は見込めず、余命が短いと診断されました。

通常は、入院したまま無駄な治療をうけ続け、

病院のベッドで亡くなるのですが、この方は自らの意思と、

家族・医療従事者などの、理解があって、

自宅で最期を遂げることができました。

余命がないのなら、患者の好きにさせればいいのに、

いまの医療システムのデフォルトは、死ぬまで入院治療です

医者からすれば、どうぞご勝手にとは言いづらいでしょうし、

家族が、できるだけ生きて欲しいと思うのも当然です。

しかし病院は、見込みのある患者にベッドを使いたいし、

年に数回しか会いに来ない家族が、

親を長生きさせて、何したいんでしょう?

周囲の本音は、「どっちでもいい」、じゃないでしょか。

そのためには、自分自身が周囲に、

最期は自宅でと、周知徹底させることが大事だと思いました。

まあ孤独おじさんに、周知させる相手はいないですけど。

 

うらやましい孤独死の条件

「孤独死」なのに「うらやましい」と言えるためには次の2つが重要・・・

「死」までに至る生活が孤独でないこと

誰にも訪れる死への覚悟があること

周囲との関係が、良好であること、

そして家族や医療従事者が、本人の意思に反した介入を行わないこと。

高齢、特に最後の時が迫っている場合は、

いろんな病気が噴出するわけで、その治療のために入院するのは自然です。

しかし入院治療を放棄して、自宅で生活を続けるには、

いつ死んでもおかしくないという、覚悟が周囲の人間にも必要だということ。

自分の死については、自分のことだから覚悟をつけやすいけど、

親を死なせることに同意するのは、親との関係が良好だと辛くなります

親も自分も、付かず離れず孤独に生きればいいのかな。

 

VR徘徊

時田さんは80代で重度認知症のおばあちゃん。

いまの自分のことさえもほぼわかっていないが、足腰がしっかりしているから毎日徘徊する。

・・・時田さんは「今のこと」「今日食べたご飯」なんかはすぐに忘れてしまう。しかし、子どものころからやっていた「雪かき」や「店番」、昔から歩き慣れた近所の道などはしっかりと覚えていたのである。

・・・地域の人たちも医療・介護の関係者たちも「本人が困っていないならそれでいいよね」くらいの軽い気持ちで見守っていた。

・・・当の本人もあまり困った感じはなく、とても落ち着いていた。都会では大問題になる徘徊が、私にはただの散歩のように見えた。

・・・認知症の人は近い過去から順番に記憶を失っていく。

・・・認知症では人格や性格は最期まで保たれることがほとんどだ。

認知症になると、記憶はどんどん失われると思ってましたが、

遠い過去の記憶や、身体に染み付いた記憶は残るようです。

ずっと誤解してました。

徘徊と散歩の違いは、周囲が気にするかしないかのようで、

近所の人たちとの、普段からのコミュニケーションが大切。

しかし家の中にいて、メタバースでVR徘徊ができたら、

どこに行ったか、心配しないですみます。

認知機能が落ちているなら、VRで見ている世界を現実と思うかもしれません。

とはいえ知らぬ間に、どこかに行ってしまうのが徘徊なわけで、

徘徊したタイミングで、ゴーグル装着なんて無理だし。

VRゴーグルつけて歩き回れるスペースが、家の中に必要だし。

慣れない人は、VRゴーグルの装着に抵抗ありそうだし。

でもメタバースでの生活を、日常にできれば、

物理的にどこにいても、同じ空間で生きられるし、

スイッチ一つで、世界を変えることもできる

今の高齢者に、メタバースの住民になってもらうのは難しいけど、

今から、VRゴーグル装着で生活し、

メタバースでの生活を、身体に染みこませれば、

将来は常時装着できるVRゴーグルも、発売されるし、

認知症になっても、VR徘徊いけるんじゃないかな。

 

 

認知症でも、うらやましい孤独死

本人の意思表示と、家族の決意

徘徊はメタバースで

単独おじさん

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